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鈴ヶ神社と静御前

岩手県宮古市鈴久名

 大聖山(ダイショウヤマ)

崖の参道工事のクラウドファンディングは終了しました。ご支援誠に有難うございました。今後は参道建設へむけて活動報告を下記サイト等でお知らせしていきます。

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​階段工事完成記念イベント​

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アクセス

(バス):東北新幹線停車盛岡駅発・106急行バス(宮古行き) 鈴久名バス停・鈴久名バス停に下車し、宮古方面に向かう・箱石トンネル前の橋の手前の左の道路にそれて降りる。突き当たり(鈴久名川)を左に曲がる。川沿いの道を300mほど進む。鉄橋の手前の、山側に「鈴ヶ神社」看板と鳥居がある。神社は頂上にあります。

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​義経のカガを祀る

写真:箱石判官神社の義経像



【鈴ヶ神社は義経のカガ(妻)を祀った神社】

義経は御前のほかにも沢山の女性がいたが、奥州まで連れ添ったのは、一度は離縁を申し渡された北の方と、静御前の二人だけである。


 

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​供養塔 鎮魂碑

静御前は難産の末亡くなった

鈴久名の地区の人たちは、赤坂の山の上の、松の木が一本植えられた広い場所にある当時の火葬場で火葬した。


遺骨は故郷に返してあげた。

そうして、静をたいそう利口で聡明だったという理由から、神様として大事に崇め始めることになった。


​​写真にある供養塔は、静御前の鎮魂碑の意味で、現在の別当家が根立

​​神社の別当家ではご縁日(旧3月3日)に、鈴ヶ神社神様を御祈祷し、お彼岸には仏の静を供養するのが習わしとなっている。

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​血判書

鈴ヶ神社を建設し静御前をご神体として祀るにあたり、当時の鈴久名全世帯の主人が署名している

血判書:カグラの蔵にあるのを昭和30年頃に西野定治ほか川井村郷土史編集部員が確認


鈴ヶ神社は、村人たちが純粋な気持ちで御前を慕うがためのお社であり、新興宗教とは無縁のものである。という内容の証明に、村人たちの連名とそこに血判が付いた一枚物の長い巻物。

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鈴ヶ神社 名称

神社3つの名前あり 
古いお宮にあった看板は 「静ヶ御前」
再興してから 「静御前」
婦人会奉納の旗には、 「鈴鹿神社」
神社の名称について異なる3つの表現あり。初めはなんとも思わなかったが、再興してから間もなくのこと。別当の妻(クニ子)がある夢をみたのがきっかけで、現在の「鈴ヶ神社」と改め名称を統一した。
その原因となった夢とは、1本の紐を張ったところに、片方揃わない靴下が、いっぱいかけてある。靴下がバラバラで、ちぐはぐである。なるほど、ちぐはぐなものを一つにしてもらいたいということか。そのことに気づかされ、新たに作って間もない「静御前」の看板を下ろして新たな「鈴ヶ神社」の看板が掲げられて今日に至る。

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地名 鈴久名 の由来

地 名
地元の年寄りは「し」の発音が得意ではない。「しずか」は「すずか」に変わる。この訛りから、現在の鈴久名となった

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鈴ヶ神社 再建の経緯


 恩人


第一章 来 客 

昭和60年3月。お彼岸も近づきそろそろお供え物の団子を作らねばと思っていた頃のこと。薪を取りにクニ子は家の玄関の戸を開け外に出た。ボタン雪がしっとりとした空気の中で、水を含ませ足早に降りだしている。

白きカーテンの向こうには見知らぬ男性が一人いた。カバンも既に濡れている。傘も持たず、濡れた頭を当然にして。ゆっくりとそして確実に近づいて来るその足は、庭の真ん中ころで立ち止まり、二人してどちらからともなく会釈した。


「こちらが鈴ヶ神社の別当家ですか」

「はい」

「私に神社を建てさせてください」


鈴ヶ神社のお社は、数年前大風のために倒され、依頼、瓦礫の山となっていたのである。

別当の橋本家は神社を建て直さねばと考えるも、なかなか資金繰りがつかず、長年悩みの種でもあった。そんな折、『見知らぬ男性』が現れたのです。

「私に神社を建てさせてください」

唐突なこの言葉、信じがたいこの言葉に、クニ子は

「はい、お願いします」

即答した。玄関前で。(さすがは・・・)


クニ子は心躍らせながら、丁寧に家のなかに案内し、貢と二人、見知らぬ男性にこれに至る経緯を聞くこととなった。

名前を 岩沢 悟 と話した。 

年齢は、改めて聞いたことはないが、当時60歳の後半くらいではと思われた。

家は北海道の舘市で、不動産業をしているとのこと。


I氏は信心深く、神仏を尊ぶ尊敬すべきお人柄であることは、直ぐに理解できた。しかし若い頃は神仏とは、無縁の生活をしていたのだと話す。その頃、ある事業に失敗してしまい、自暴自棄になってしまった岩沢氏は、もう死ぬしかないと考えていた。そんなある晩、夢をみたのだ。夢の中で「あるところへ行きなさい」と言われ、半信半疑のまま夢の指令どおりにしたところ、それがきっかけで、事業が順調に行くようになったという。それからというもの、四国の四十八ヶ所巡りをはじめ、全国到る所の神社仏閣をご参拝するなどして、神仏を尊ぶようになったという。岩手を訪れたのも、このような関係からでる。


第2章  夢の実現


昭和57年。I氏が宮古から山田線(盛岡=宮古間鉄道)の汽車に乗り、盛岡へ帰るときのこと。判官神社を奉る箱石駅を過ぎ、一つめの真っ暗なトンネルを抜け、眩しさと同時に映ったもの。一瞬にして移り行く景色が、以前夢で見ていたものと、全く同じであったことに驚愕したのです。線路を挟み、左に聳える鈴ヶ神社の山。右には大川(閉伊川)と、それに架かる小さな橋。この景色こそ、以前夢に出てきたそのものであったのだ。

これをきっかけに、以降たびたび鈴ヶ神社に足を運んでは、参拝していたということであった。しかし、I氏はその度に心を痛めるのでした。それは、お団子やお菓子があげられ、たいそう大事にされている神様なのに、お宮が壊れたままであったことです。

神社は昭和54年の台風の被害にあい、崩れてしまってから、そのままになっていたのだ。神社を再建することは、別当家でもずっと考えていたのだが、どうしても資金がつくれず、気がかりでならなかった数年間。I氏の申し出は、別当家にとって、まさに夢のような、ありがたいお話であった。


I氏はこの他にも夢の話を聞かせてくれた。

夢に現れる、高貴な顔立ちの女性。おそらくは、白かったであろう着物の色はくすんでおり、首には大きな数珠がかけられていた。自分は「あなたは静御前ですか」と尋ねると女性は「そうです」と答えた。

「間違いなく静御前ですよ」慈愛に満ちた瞳で語る岩沢氏の、稀にみる純粋な信仰心を確実に感じ取ることが出来ました。

こうして、神社再建へ向け、北海道のI氏と地区の人やら有志の方々のお力添えのもと、夢が現実へと進行していったのである。

第3章 神社再建 後  記 


橋本 貢・クニ子


神社に使用した木材は、ある製剤所の奥にずっと眠っていたものを、滝野弘己大工棟梁が見つけ、それを格安で譲っていただいた。

しかし、この木材等を高台にどうやって上げれば良いかと、しばらく苦慮していたが、高見元嘉氏の世話により、菅原建設さんより集材機を借用することが出来た。そして、この集材機を扱う古里 勇氏の、手際のいい熟練の腕には深く感服した。

危険が伴う、ワイヤー撤去の際には、かなりの注意を払ったが、着工から完成に至るまで、けが人も無く、関係者全員が揃って安堵の杯を交わすことが出来たのは、とても有難いことでした。関係者一同と、おそらくは静御前のお力もお借りしての完成であったことだろう。鈴久名部落全員で参加していただいた祝賀会でした。


[魂は共有のもの] 先祖を拝むという真の意義は、過去を知る事にあります。先祖があって今の我々があり、過去が在って現在が。本来そうであるべき自然観念を誠実に実行することにより、おのずと真のものに触れることが出来るという事を、鈴久名部落の人たちと、魂を共有できたことに、未来永劫深く感謝します。


最後に完成までの間、一部に流れた言われなき世間の中傷に臆せず、雪ノ下じっとこらえて春を待つ新芽のように、最後まで別当家に協力してくださった棟梁のご家族の方がたに敬意と感謝の意を表します。

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義経の甲冑や静の手鏡

昔は神社に甲冑姿の義経の像もあったというのは、世に知られているが、おそらくは200年くらい前に遡ると思われる。そのほかにも貴重な御前の遺産があったのだが、残念ながら全て、ほいどう(乞食)に持って行かれてしまった。神社を一夜のねぐらにし、その後持ち去ったというのだ。金目になりそうな物を持ち去っては、質屋で換金するというのは、珍しくなかったらしい。

 貢の父は、よく「あれさえあれば、あれさえ・・・」と悔しそうに連呼していたものがあった。いわゆる、神社の虎の巻。巻物があったというが、それには御前に関する事がらや神社に関することが記されていたのだという。

また、御前が生前愛用していた手鏡を奉納していた他、立派な鈴(立派という以外わからないが)も提げられてあったのだが、同じようにして無くなっている。ついには口承でしか後世に残すことが出来ないのが、実に悔やまれる。


手鏡というと実に興味深い史実がある。雪深い吉野山で、泣く泣く恋しい義経から、手渡されたのが「手鏡」であった。「これだけは自分と思って肌身離さずもっていてくれ」と渡されたのだ。他にも金目の物を持たされるが、それは付き人に裏切られ盗まれてしまっている。「手鏡をもらっても分かれてしまっては悲しいだけ」と義経を困らせた御前であるが、言われたとおり、手鏡だけは義経の形見と思い、肌身離さず持っていたのではなかろうか。

神社には明治の初め頃まではあったようで、鏡といっても現在のつくりとは違い、銅版のようなもので出来ており、それを綺麗に磨いて、顔を写すものであったらしい。

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長老 山本千松氏の言葉

明治生まれの、故人で、元鈴久名の長老が良く言う言葉があった


「御前は高貴な顔立ちだんすよ」

山本氏は、先輩の佐藤久太郎氏(かぐち)からこの言葉を受け継いでいる。

このほか

・鈴ヶ神社は静御前を奉ったものである

・静御前は金売り吉次に案内されてきた。

・旅の護衛は山名家の男三人兄弟。

​・身重の旅であった。

・金売吉次は、足の速いひとで、盛岡まで(盛岡を1日で)往復した

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行事

正月には松葉と、お酒。小正月には瑞木団子。旧3月3日はお酒とお菓子、団子等をお供えする。お参りの人たちは、おまんぶりとして、供えられた団子などをもらって帰る

今もなお、御前を慕い、敬意を評し、小さな背中を丸めて両手を合わせるお年寄りの姿は、崇高なものに感じる。

​平成最後のご縁日は、2019年4月7日(旧3月3日)(日曜日)

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鈴ヶ神社別当 橋本家から橋本家へ


橋本貢家別当としては300年。その前は橋本万次郎といい、そこから周辺の山を含め、譲られて今日に至る。橋本貢の本家は[子ハスパ]。その本家は[大ハスパ]であるが、橋本万次郎はこの大ハスパの者である。当時万次郎夫妻には子供がなく、親戚寄り合いした結果、引き受けるところなく、現在の橋本貢家があづかいころした。(余生を見届けた)

そして大正4年に神社と周辺の山の登記を移し、今日に至る。

神社建築

明治27年再興。

昭和61年4月、建築着工。

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こぼれ話

神社の東側の裾(すそ)近くを閉伊川と平行して盛岡と宮古を結ぶ、鉄道山田線は、昭和8年に開通している。この鉄道工事中の出来事。

現在81歳の神楽倉次郎氏(屋号:トナリ)と去袰岩新一(屋号:コザカ)の二人で子供のころ、建築列車という小さなモーターカーのようなものに、上り下り面白くて乗せてもらっていた。そして鈴ヶ神社の裏手、別当の畑がすぐ近くにあるが、そこまでレールをひきバラスを載せる作業の時である。神楽倉次郎氏らが、何気なくそこいらの畑の土を掘っていると、つばも柄も無い、錆びついた2尺ほどの刀と、4つ足の石のお膳が出てきた。お膳は縦7寸、横1尺ほどのもの。それを見た建築列車の運転手が「こりゃ良いもんだ」と言って、横沢川に下りて川の水でお膳を洗って持ち帰ったという。ピカピカに磨かれた立派なお膳であった。

神楽氏は当時のことを、このように回想して言った。

「平泉から逃げてくれば、この辺が安全なんだあもんな。盛岡にいれば敵も見方もいるし、丁度ここが安全なのさ」

またこのようにも語ってくれた。

「刀だけ埋めるはずがないし、侍も一緒だったんでないかな。石のお膳は腐るものでないし出てくるかもしれないよ」

                [平成15年7月9日 聞取 橋本 貢]

倉次郎氏から侍という言葉を聞かされた貢は、

「何年も霧に包まれていたものが、瞬時に日差しが差し込み、目の前が明るくなるのを感じた」と語る。それは・・

それは別当の家はかまども新しく、先祖代々農家である。しかし、橋本家が信頼し、長年お付き合いのあるイタコさんから、先祖について「武士や刀はいないか」と度々問われるが、思い当たる節など全く無い。ただ首を傾げるばかりであった。イタコさんの話によれば、その武士は大変苦しんで亡くなっているのだという。

以前別当は、手足を縛られ大変苦しんでいる侍の姿の夢を見ている。それにしても数百年も前の魂が今だ、生きているものに訴えてくるというのは、いずれにせよ考えさせられるものがある。

これ以降、私の長女(当時)7歳が足が痛がらなくなった。以前は夜になると、足首の辺りやら、足の裏などが痛いと言って、ビッコをひくことがしばしばであった。学校では頭が時々痛くなると言って、登校をぐずることもあったほどだが、侍の供養をお寺に頼んで以来、ピタリと長女の不思議な病がなおってしまった。

足が痛がらなくなって安心していたが、今度は頭が痛いと度々言うようになっていた。「どのあたりが痛いのか」と詳しく聞いてみると、頭のてっぺんが痛いと言う。学校でも時々痛みがあり、本人も時々苦痛になっていた。そうこうしているうちに私の姉の嫁ぎ先の家の守り神、自宅近くの弘法大師様の石の天辺が長年欠けているという話が出てきた。長女の頭の天辺が痛いというのも頷ける。取り急ぎ弘法大師様の石を新しくし、神抜き、及び魂入れ等々滞りなく行い、以降まったく長女の頭病みは無くなった。今でもふと不思議に思い、長女に「今は頭は痛くないのか」と聞くことがある。「痛くないけど、言われると思い出すからいやだ」とべそをかかれるので、あまりこのことには触れないようにしている。



お膳と刀が出てきた畑のさらに閉伊川付近には昔沼地があった。その沼にしゃもじを投げ入れたら、腹帯の大渕にぬけたという。

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潮来(いたこ)と犬

女人禁制だったころ

神社のある神聖な山には、女は登ってはいけないとされていた昔、一人のイタコが、「おれはイタコであるから女でも大丈夫だから」と言って、犬と一緒に鈴ヶ神社を目指し切り立つ岩に山に登って行った。ところが途中で大きなつむじ風に吹かれ、犬と一緒に沼に落ちて命をおとしてしまったのだ。昔から地区の人に口承されてきたことは、イタコと犬は石になったということ。それからその石を、山の中腹に、供養としてだろう奉るようになった。(犬の石とされる石は確かに犬の顔をしている)
今年の春、別当の母(カチエ)が亡くなったが、その母が生前に、家の裏の山道(大聖山)のところに、ちょこんと座っている犬を、昼間何度も見ている。それを聞いた息子(貢)は不思議に思い、イタコさんに聞いてみた。すると「神社を守っている犬である」と教えてくれたのだ。もしかするとイタコの犬がそうなのか。
犬というと思い出すのは私の夢の話だが、山の中腹の山道から、下を眺めると、10人くらいの人たちがウロウロしている。自分は見つかってはならないと、恐怖しながら身をかがめる。すぐ目の前に、中堅の犬がこちらを見ていた。
御前は犬と一緒にお供のものと旅してきたという事実を後に知った。
また姉の夢は、誰かから逃げおおせなければという緊迫感のもと、もし見つかったならば、懐に隠してある短剣で身を守らなければと(もしくは自害)、手にそれを握っていた。というものである

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静御前が京都から持ち込んだ

【箱石こうきりりこ】

静御前は、地区の人たちに唄と踊りを教えた


箱石こうきりこの歌詞は、親に捨てられた子供を切なく表現している箇所がある。静と義経との間に授かった男児が、佐々木四郎高綱の養子となっている。

​養子となった当時三歳の子供と宮古市田鎖で再会した時の心情ではなかったか。

静御前が京都から持ってきたという言い伝えがある。

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踊りの名手 静御前が京都から持ち込んだ 【七つ舞い】

静御前は鈴久名の人たちに七つ舞いという、7種類の道具をつかった踊りを教えてくれた。静が居を構えた土地の前で、教わった踊りを静に見せたという。

​​静御前はたいそう嬉しそうだったという。

その名残で、お盆には七つ舞いが鈴ヶ神社ふもと、静御前が居を構えた土地で、一番初めに踊られていた。だが、年々人が少なくなり昭和の初めに鈴久名での踊りが継承されなくなった。

下の動画は旧川井村鈴久名の隣の、岩泉町で継承されている七つ舞い。👇

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静御前の北行コース

静御前は金売り吉次(石田吉次末春)に連れられて、出羽の国(山形)から秋田を周り、鈴久名の地に来られた。秋田を廻ったのは、身の安全のためである。「安全」とは恐らく、追手から逃れる方法という意味だと思われる。

この時、白い柴犬を連れてきた静である。

福島県の郡山市には、御前にまつわる伝説が数多く残されており、此処には御前のお墓や、母である磯の禅尼の供養碑も立てられている。そこから先、宮城県には「静の椀」が。そして山形から秋田、岩手の大迫に「静の祠」の跡を残し、霊峰早池峰山を眺めつつ、かつて旅人にサカキ街道と言われた、今は大規模林道川井住田線の峰を通って鈴久名にたどり着いた


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烏帽子姿の馬に乗った義経

寄贈品
あいわりゅう
【天意和龍】

作者 熊谷 明

宗派を超えた、世界平和を願う気持ちが込められています

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寄贈年月日 2016年4月27日

和の口の部分は渦を巻いている。その中央は蛇の頭、外側の頭は龍になっている

渦巻きの渦はエネルギーであり、天に向かうならアセンションを意味し、蛇と龍は静の手となり足となる眷属となっただろう。苦しみ、悲しみ、戦、戦争のある世界から脱皮して、世界中のみんなが手を携え、支えあう新世界へ、天意和龍がいざなう

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静峰苑

秘境の宿  大迫から鈴久名までの静御前の北上コースの地点の秘境の宿です

お立ち寄りの際には

​隠れ静の滝  隠れ義経の滝 見学をおすすめ

​古代ピラミット山と言われている早池峰を一望できる大規模林道は紅葉季節は特にドライブにおすすめです。

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Sitting Area

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